2013年8月31日土曜日

黙っていれば


「黙っていれば愚か者でもかしこく見える」​


確かに人は、未知な事に対して色々いくらでも妄想してくれます。
だからその推測の中には、「ひょっとしたら、この人はすごく賢い人なのかもしれない」という可能性は僅かなのですがあります。
それは、他人からは外側しか見えない様に、神が造ったからなんですが、
所が、自分が一旦、口を開いて語りはじめると

「しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、」

と、あるように
その内容によって、おおむねその人の魂の力量も測れますし
一部であっても心の内側も、垣間見る時もあるでしょう。
つまり、未知な部分は急速になくなり、大体底が知れる部分が増えてきます。
そうなると、妄想の膨らみも減って「すごく賢い人」と思ってくれる事は、すぐ無くなります。

『民数記』21章17-18節
    

  「井戸よ、湧き上がれ
   井戸に向かって歌え。
    笏と杖とをもって
   司たちが井戸を掘り
    民の高貴な人がそれを深く掘った。」

「黙っていれば愚か者でもかしこく見える」という言葉は
「雄弁は銀、沈黙は金」と、同列的な意味合いで語られる事もあると思いますが、
たかが、人の知恵のその程度の事を、伝える為に、わざわざ、神が書いたとしたら
私程度の者でもその全能性を疑います。
『民数記』21章17の井戸は女性形の”それ”と、書かれてあってイエスの花嫁であるエクレシアの型の様にもみれます。
また”湧き上がれ”とあるのでそれは只の井戸ではなく泉の様です。
井戸は本来深い所から苦労して汲み上げる作業があって初めて役に立つのですが、
常に汲み出していると、ルートが出来て水量が増えてくるモノです。
ついには、溢れる程になるなら素晴らしいですが、それも深く掘って汲み上げてくれる方がいてこそ

「思い計らいは人の心の中の深い水。
英知ある人はそれをくみ出す。」


箴言 20章 5節にあるように、大事なのは”英知ある人””高貴な人””さとき人”。
”笏と杖”も、実際は穴を掘る道具ではなく権威を表わしています。
さて、電気屋的 箴言17章28節は

もし、私の魂が、多くを語らず、霊の前に、口をつぐんでいれば賢きお方が深い所から語ってくれるので

「愚か者も黙っていれば賢く思われる。 唇を閉ざしていれば、聡明な者と思われる。」

とあるように
私でもイエスと同等に見える訳です。
この場合、勘違いして思ってくれるのではなく、確実に思ってくれます。
誰が私の事をそう思ってくれるかと言えば”神”がそう見てくれるのだから有り難い、まさに有り得ない様な事なんです。
もちろんそれだけじゃあなくて、弟子たちにあった人々のコメントのように、
「カスみたいな奴等なのに 、なんで!」とか「どう多めに見積もってもこいつの魂の力量はこの程度なのに、いったい ど ゆ こ と !」っていぶかしく思うだろう。
だって見える所は只の空っぽの穴なのに、汲んでも汲み上げても無くならない
「こんなこと、今まで見たことない!」ってなることもあります。
見た目は只のおっさん、その内側では私の霊が聖霊から汲み上げているのだから、無限なのだ

じゃあ、どうやって魂を黙らせるか、
私の魂が魂に「黙っていろ」と、命じても同級生に先生の様なふるまいで命令する様なモノなので
効果なしどころか、痛い目にあう事も、、そもそも到底無理  そこが自分の魂の魂的なジレンマですね。
じゃあ、どうすればいいの、っていうならヨブ記にあるように鉱脈や井戸を掘った事がある人ならわかる事でもあると感じます。

2013年8月30日金曜日

今日この頃


台風の影響もあってか雨がいい感じで降っております。
最近車の中での話ですが、、

私があまりにもバイクを売ったり買ったりするから家内が少し呆れた様に

「あなたは、バイクと私どっちが大切なの?」

などと、分かり切った事を聞くから、

「安心しろ、お前は2番目だ」

などと、真顔で答える。(もちろん1番目はバイクではありません、、汗、、)
そのうち家内も、落ち着いた物言いで

「私、あなたに期待しない事にするわ」

たった、ひとりしかいない旦那に何という事をと、一瞬、心の中で思ったけれどすぐに、
”これは良いことだと、、、”
所詮、鼻から息をする者でしかない私などを期待して頂いても私も困る
もちろん旦那としては妻からの信頼を勝ち取ること自体は悪いとも言えないが、
バイクは、私が中途半端には、かなり出来ないジャンルになる。
実用品である車でさえ、レストランから支払いを終えて駐車場に向かう時

「アレが、俺の車か~(⤵)」とガッカリしながら近づくのと

「アレが、俺の車か!(↑)」とでは、かなり違う

移動の為の道具であり、ある程度割り切っている車でさえそうなのだから
移動する事自体が、目的であり、実用性などほとんど考えてないバイクは、
実に魂に正直になって自分の愚かさ、私と言う人間が如何にバカかを常に露呈し続けているのである(実際自分でも呆れている)。
立派な大人や、尊敬される夫などを無理に演じる様なこと(自分で自分を騙す事も含む)をやめて、所詮は自分はコンナものだと第3者的な目で、眺めていたい気がしている。



8月の18日にドロドロになりながら歩いた葦の湿地をカヤックを引きずりながら歩いた後が、まだ残っている。
携帯も、車中に置いていったから(持って行くとドロドロのになるからね)、もちろん電話しても出ない、帰って来る予定時間をかなり過ぎてもまだ来ない。
家で、帰りを待つ人の気持ちはわからいでもない。
妻同士の間では最悪の事も踏まえて消防に捜索をお願いする話までなっていたらしいが、その時の妻の行動が何だかイイなと思った。
その様な事、彼女の夫は、定期的にやってきたので、彼女の心の中では
「まあ、いのちは守られているだろう」とわかっているけれども、実際、私のこころは、心配しているんだから、「心配してやろう!」と思ったらしい、のだ。

これは、以前の彼女ならもう少し優等生的な行動を取ったと思うので興味深いのです。
私たちは軽トラ一台でゴーカートを楽しむ様に出て行ったし、
LUKEさんの車の鍵も一緒に持って出たので、その後ろになったままで家の車は出せない。
「神様は、こんな状況に置いて下さったのだ」とは、確信したらしいが、それなら、神が置いてくれた状況の上であがいてみようと、していたらしい。

素直に心の感じるまま、でも今までと違うし、クリスチャンになる前ともまた違うし、
何だかうまく言えないけど、とにかくそんな感じ
「悪くないね」

そんな事を、思っている今日この頃。

2013年8月27日火曜日

回想趣味

 ゼファー、エスト、W650,XL230、CB1100、V7,トライアンフスクランブラー、などなど
 バイク界では、レトロ、懐古嗜好も宴たけなわではございますが、
 かつてのイギリスのブランドの復活をとげたノートンコマンド961は、
これらの中でも
頭一つ飛びぬけているような気がします。

市販車なのに、スカチューンしたようなディテール(標準はもちろんスポーク、個人的には赤が良いけど)
レトロなのに足回りなどは最新という組み合わせ
パラレル系のエンジンは何故だかあんまりハートにドンとこないのですが、
見た感じだと嫌いになれないという作り込みですね。

それ以前に、金額的にも実際買うと300は超えるので、 ナイナイとなるのですが
当初は世界限定200台だったと思っていたのですが、引き合いが多かったからか
結構作っていらっしゃるようですね。

ビューエルが持っていたOHVエンジンのスピード記録を、ノートンコマンドが更新したそうだけど
記録では129.191と言う数字 、これがmphだとしても194km/h

でも何処かそんな緩さがいいね。


2013年8月25日日曜日

野生の根


今日は、午前中かけて表の庭のモクレンと裏庭のヤマボウシのお引越ししました。
モクレンはまあ思ったほどでしたが、ヤマボウシは大きさも小さく植えてからの年数も少ないのに抜くのがとても大変でした。
木の性格もあるだろうけど、コブシの園芸種であるモクレンと野生のヤマボウシの違いも感じました。

地面から見えているモノが私の体とするなら、根は私の魂のようです。
地中にあって見えないけれど、支えているだけでなく生きて行く為の供給の源でもある根は起こすのに実にやっかいなもの。
私のこの体は旧創造で、過ぎゆかないといけないモノ(塵)だけど
私のこの魂も神の御心を一切、行うことも、お手伝いする事も出来ないもの
かえって神の邪魔になるだけのもので、完全に処理して頂かなくてはならないもの
こころは、実によろずのものより偽るもので、霊的な様な動きも出来るし私自身にもそう思わせる事が出来る。
魂の動機に正しいモノは無く、取税人の様に胸を打って恵みを期待するしかない。

今日はマジで、主もこんな苦労をさせているのだろうな(こんなもんじゃあないけど)と、思いました。
ふー 疲れたー

2013年8月21日水曜日

アブのいのち


何もしてないと逆に疼いて感じるので、この機会に普通は、調べない電気屋なりのアブの考察

アブは亡ぶ虫と書きます。そのままでは本来亡ぶべき儚いいのちなのですが、
動物の血を頂く事で新しいいのちを頂くというお話です。

「アブに刺された」とは良く聞く表現ですが、実際はアブは刺しません。
アブはハチと違う仲間で針を持っていないからです。
アブはハエの中までその中でも一定の大きさがあるとか、噛んで人の害になるモノの種類の総称。
沢山の種類の中でも、血を吸うのはわずか数種類で、代表的なウシアブ(ウシアブという虫は「風の谷のナウシカ」でも登場していて中々グロイです。)を筆頭としてのシロフアブ,ゴマフアブ,キンイロアブなどで、殆んどは益虫ですのでアブだからとむやみやたらに、ハチ虻ジェットなど使わない様にしたいものです。
ウシアブは複眼が緑色、シロフアブは銅褐色で体調も少し小さ目、ハチに似せてあるのは神が着せてくれた守りのようです(実際そのお蔭でアブだと確認できるまで素手では触りたくない)。



↑写真はウシアブ(その中でも赤っぽいので地方ではアカウシアブとも言います)。
わらしべ長者にあるように、これに藁をさしたり、紐で結んで遊びました、夜店の風船より動きが面白いですよ、是非お子様のいいるご家庭では楽しまれるとよろしいかと。

ちなみに、その中でも血を吸うのは雌だけで、血を吸うのは卵巣の栄養源とする為で例えば3回ちゃんと血を頂ければ3回卵を産むらしいです。

今まではbite噛むと思っていたのですが、実際は鋭い両刃の剣の様なもの(門歯)で皮膚を切り裂くわけです。
↑画像はシロフアブで今回我々を襲ったのもこれだと思われます。
先っぽの触手では無く口の上の黄色の唇(?)と、下の舌(折り畳み式)との 間に見えている黒っぽい尖っているもので斬るわけです。

蚊の場合は麻酔が唾液にあるので気が付かない時も多いのですがアブの場合は実に乱暴に引き裂く訳で、その時に痛み(人により激しい)を感じるから刺されたと思うわけです。
血が固まらないように 特殊なたんぱく質を含む唾液を出すのでそれが原因で次第に発赤して腫れ、しばらくしてから激しいかゆみが生じます。腫脹と疼痛は、個人差があるものの、他の昆虫に比べて極めて強く、数日から数週間も続くことがあると書いてあります、そしてほとんど一般のかゆみ止めが効かない(うーん、すごく良く解るしどんどん頭に入って来る、体験中だから)。

動物生薬としてヒルが用いられた様にアブも同じ効果があるといいます。

以下コピペですが

”ヒルはヨーロッパで古くから薬用として使われ、1929年までは各国の薬局方に収載されていた。生きているヒルを患部の皮膚に吸い付かせ血液を吸収させる瀉血療法に用い、主に脳溢血、急性緑色色盲、角膜疼痛に応用された。打撲などの内出血で暗紫色になった部分にヒルを置いて吸着させると正常な皮膚の色に回復する。ヒルの唾液は抗凝血作用があるため、ヒルが離れた後の血はしばらく止血しない。このような観察から薬として利用されるに至ったものと考えられる。

新鮮なヒルの唾液腺にはhirudinという抗凝血素や凝血抗素ヘパリン、抗血栓素などを含む。hirudinを家兎に注射すると血液は長時間流動性を保ち、これから分離された血漿、血球、thrombinなどはこれにfibrinogenを添加しても凝固しない。この血液凝固抑制と溶血作用から血病を治す要薬として応用する。血滞閉経、オケツ、硬結、腫瘤、打撲による内出血、癰腫など。オケツの中でも、とくに陳旧性の頑難なものに用いる。溶血作用があるため内服の場合、妊婦は禁忌である。癌などオケツのはなはだしい病態に使用するが、なにぶんヒルを粉にして服用する為、味覚や気持ちの上で克服すべき問題がある。自家製造の丸剤を分けて頂いて用いていたが現在では入手困難になった。”

アブもヒル同様、強い破血効果があるため堕胎を目的に使われることもあるほどで妊婦には禁忌。
血行障害による無月経・腹腔内腫瘤、打撲外傷の腫脹・疼痛など 鹿などはアブに刺されると執拗に追いかけてアブを食べるらしいけど(うちで以前飼っていた犬も同じ行動でハチやハエには反応しないでアブだけ特別)、血液サラサラで元気になるのか?うーん、食べたくはないですが、、

調べていて興味を持ったのはキリストとクリスチャンの関係性です。
アブは湿った泥の中や葦、灌木の葉の裏に卵を産み、ウジになり1年または、栄養源が少ない場合は越冬して2年3年と、泥の中で、ずっとウジの状態で過ごします(このウジは魚のエサともなります)。
アダムらがエデンにいた頃はアブは人を傷つける事もなく大量に群がる事も無かったと思います。
それは、神が雨を降らせず、野には一本の灌木(背の低い木の総称)も無かったと書かれてあるからです。

救われる前の人の状態をヨブはウジムシと言っています。

「まして、人は蛆虫で、人の子は虫けらだ」ヨブ25-6

神の定められた時に(アブの場合は7月下旬から8月末まで)神の恵を受け(アブの場合は十分な水分や栄養)ウジは羽根のあるモノに変えられます。
そして新たな命を産み落とす為に女(のアブ)に必要なモノは血です。
アブは出産(産卵)以外では、ミミズや他の虫、花の蜜などを食べるそうですが新しい命をその小さな体の中で育て産み出すには、血が無いと産まないらしいです。
私たちに、死をも恐れ無い様にまとわりつき、襲いかかるのは、今日、自分の目の前に現れた血を貰わないでは夏が終わると彼らの命も終わるから、まさに我々は鴨がネギ(血)背負って向こうからやってきた様な、千載一遇の大いなるめぐみだった訳です。

私の思いでは、
ウジ=生まれたままの人 (神の恵を受け取らない人)
虻=イエスの救いを得た人(神の恵により永遠のいのちを受け本来の形の変えられる人)
いのちを宿し産み出す虻=キリストの花嫁(神のいのちを自分の体の内側で働かせ、恵みで無く報酬を頂ける人)

ここで大事なのは、その血がどれほどの者であるかという信仰

マルコでは、シュオルではウジが尽きる事もないと掻かれて書かれてあるように、人の子の血を受けなかった者たちの状態が示されています。
アブは牛を代表とする脊椎動物の血しか受け取りません。
血は皮の下に流れているのですから、皮は引き裂かれなければなりません。
エデンでアダムが犯した罪の故に、血が流され皮の衣を主は着せて下さいました。
麻酔の効果もないまま生きたまま裂かれる事は痛みを伴います。
しかしその血には命があり、次のいのちを産み出すのです。

マタイでは「天国は激しく襲われている」と書いてあります。
私はあのアブの大群の中に両手を広げて(アブで死んだ人は聞いた事がないから命を落とす事は無くとも)自分の血をアブの新しいいのちの為(例え献血程度400mL程で1万匹以上のメス虻の必要を満たしそこから新しいアブのいのち100万匹以上が生まれるとしても)に捧げる事すら出来ない(それ自体にまあ、意味も無いが)。
あのぬかるんだ泥に両足を取られ 両手を縛られたままアブに私の血を豊かにどころか一滴も与える気がない。
私にはアブに対する愛がない

また、私は、振り返ってあのアブの様に、神風特攻隊の様に貪欲に滅ぶべき命をかけても、あの血を奪いに、”永遠のいのち”なるお方の元に、向かっているだろうか。
絶えず血を携えていのちなるお方と向かい合っているだろうか。
十字架のもとで流された血と水によって日々きよめて頂き、
内側の新しいいのちが成長しているだろうか。

⤵はシロフアブの複眼、ウシアブの方が色は綺麗ですが、たかが虻にさえ(失礼)
これほどの機能と美しさを与えている、わが主畏るべし  それにしても痒いー













追記ですが、 家内がよく歌う
スーパーフライさん   輝く月のように
  
どれくらい感謝したって足りないか ら あなたを全身で見つめ返す
太陽の光を浴びて輝く 夜空の月がそ うしてるみたいに

雲の空隠れるようにさまよう私 光を ぶつけてくれたね
ひとりきり閉ざした心こじ開け 私の 全てを受け止めてくれたんだ

  誰かを頼る心 強く信じる心
きっとあなたに出会ったから 素直に なれたんだ

愛を知って輝き出すんだ
人もみんな 世界を照らしてく
夜空の月のように こんなにも輝いているよ 見えるかな
逃げないで強くなって あなたに笑っ て欲しいから こんなにyeah
    見て光よ

まさに、ある意味で、アブはスーパーフライなのだ(英語ではホースフライですが)

2013年8月20日火曜日

夏の終わり


昨日夜半からの雨で一気に気温も下がり名実ともに夏が終わった感じです。
写真は12日に山梨から私のバイクを見に尋ねて来てくれた方
モトグッチアンバサダー850を950にしてあるバイクで野辺山、志賀、飯綱と3つの高原を越えて戸隠高原に
ブログも見て非常に興味があるとの事で、バイクは乗ってナンボだからお互いの車両を交換して私の先導で走り出した。

ループフレームのグッチはおそらく日本で30台ほど
私のグッチも出所なども私以前から知っていて見ていたそう
おそらく実勢価格150万円はするであろう車両だから最初はちょっと慎重にしていたけれど
少し走っていたらステップを擦らしてコーナーを楽しんでいた。
アメリカ仕様はバンク角が無さ過ぎです。
誰も通ることもない戸隠連峰眼下に横たわる西岳林道を軽快に駆け抜ける。
頭以上の落石などしょっちゅうだし、4.5本ほど小川を越えながらバックミラーを見るとちゃんと付いてきている。

鬼無里唯一の信号機の先で止まった時、シレッと

「イイ道ですね」

と、言っていたので、なかなかやるなー
大概の人はオフ車でも「すごい道ですね」なのにね

「この後は、一本道で日本海まで抜けますから」

と、声をかけて彼と別れてから自宅に帰ってバーベキューの続きを、、
彼は日本海を見てから群馬県の自宅まで下道で行くらしい
あの年で更に古いグッチを8台ほど所有しているらしいから、どんな実家なのだろうか
いつか彼が八ヶ岳にギャラリーカフェを、始めたらそんなつまんない事でも聞いてみるか。

今年は、お盆を堪能したという感じです。
ずっーっと何処かか誰かがお泊りでしたので今朝になって普通の日々を味わっています。
濃ーい8月でした。

後で電話があって

「あのバイク買わせてください。」

と、の名前憶えていない彼も、SIGNさん、新潟のIIさん、能登の家族、親戚、金沢の姉家族、白山市の義理の母家族、長女の家族、LUKEファミリーなどなど
じゃあ、また いつか

2013年8月19日月曜日

冒険の扉

さて、昨日午後からDr,LUKEファミリーが戸隠にも来て頂いて楽しく過ごさせています。
来る前にメールで

「アクテビィティはどうしますか?」

と、聞いていて、LUKEさんの選択から戸隠の渓谷をカヤックで下るという事にしたのですが、、、、、
まあ、私らしいと言いますか、レジャーでは無く冒険、ちょっと大げさにいうならサバイバル的になりまして
結局、皆さま戸隠泊と相成りました。
ちょっと、反省と、申し訳なさもありながら、皆さま文句も言わず、なかなか出来たご家族だなと感謝であります。


アブの大群に(大げさでなく)襲われエジプトの災いを肉を持って回想し、
水流やぬかるみに足を取られ、砂利が靴の中で一杯になり歩みを妨げる
背丈ほどの葦の草原では 、先が見えず、辺りは暗くなっていく、
人が通ったような道が無い場所を、カヤックを引きずりながらルートを切り開いて進む


”パリダカールラリーを始めた故  ティエリー・サビーネのことばを思い出す。

「冒険の扉がある。 扉の向こうにはあらゆる危険と困難が待ち受けているだろう。 望むなら、私が連れて行こう。だが扉を開けるのは君だ」 ”

敢えて、危険を冒す事は愚かである。
だが、避けられない事もあるだろう。
それなら、日常では味わえない事も楽しめたらいいな、
そして愛する者が待つ、約束の家にまで、無事に帰る事、
それが一番大事な事です。

追記、とはいえ、ファミリーの皆様、どうもすみませんでした。


2013年8月17日土曜日

水母的脱力生活 求我激希望深霊

 恋路海岸に突き出たシロ島の先端に立つ息子です。
流石に落ちればただではすまない高さなので、この後平気そうな顔でピースしてましたが、ビビリ入ってます。
私の実家は一晩だけで、息子のリクエストで能登島水族館へ
 今は、端も2本架かっているので島をぐるりと一周する形で回りました。
能登は、今でも時々はジンベイザメやクジラも近くに寄る事があります。
遺跡からは、トドやアシカなども食べた跡があるので住んでいたのだろう。
お盆で普通はガラガラの水族館もそれなりでしたが、駐車場もそんなに待たずに止めれるし、
ヒナも一緒だから思ったより楽しめました。

ちなみに甚平ザメの甚平はもちろん夏によく羽織るジンベイと柄が似ているから付けられたそうです。
なるほど、なるほど(自問自答ですが)

 田舎にあるわりと此処はいい水族館だと思っています。
実際の海でイルカと触れ合ったり、お決まりの水中トンネル、クラゲの揃いも結構なもの
最低の出力で最高の効率を
自力よりもほとんど海流に乗って進む(流れて行く?)クラゲは、霊的生活の模範のようも見えます。
つい、力が入ってしまったり、頑張り過ぎるこれは、傍から見ていても暑苦しい
夏にクラゲが増えるのは神の恵か?





そんなクラゲでも苅田発電所を停止させたのは先日の事
これが原発なら大変な事、暑い夏も涼しくなりそう
冷やし続けないとメルトダウンするものは大変な厄介者
私も興奮すると止まらなくなる事もあるから気を付けましょう、まあ私の場合は冷めやすい所もあるのですが、、

恋路の海

 クリスチャンになってからお盆に帰郷する事はほとんどなかった。
もちろん暑さをわざわざ味わいに行く事もなかろうという考えもあったけど
殆んどの会う人たちから

「○○ちゃん、お盆やさかい~墓参りに帰って来たったが~」

と言われる、お盆特有の宗教行事も毛嫌いしていた所もあったと思います。
イエスを主とする事は宗教ではないのだから別に他の宗教を避けたり対抗したりする事も無かろうに、おかしな話ですがそれも所詮魂的な働き。

着いてすぐ、金槌とバールを父から借りて、海に泳ぎに行く。
海沿いで育った者にとって、海に泳ぐって事は何かを採ってくる事と同義。
魚を突いたり、サザエを採る 場所

今回は、50m程沖にでて岩場の所の牡蠣が目的だったのだけれど
下水道の完備や人口が減ったせいか水の汚れも減って牡蠣もいたけれど鈴生りという具合でもないし
代わりに、シタダメと呼んでいた巻貝が増えていたので私にはサザエ以上に美味なのでそれと増えすぎたムラサキウニを適当に30程(あまり採っても後が大変なので)。
能登にも馬糞ウニやムラサキウニはいるけど、能登の人はこれらを食べないからちょっと増えすぎで足の置き所も無い感じ
お盆頃になると行燈クラゲが増えます、やはり刺されました。

小さい時はとっても痛く海から上がった後も、ヒリチクしてましたが、大人になったせいか大したことありません。
腕には今も同じくらい赤くなっていますが、時々は、いろんなものに刺されるのは、体の為にイイんじゃないかと思っています。(ちなみに先日ハチにも刺されてます)


ヒナも海が好きらしく一度入るとなかなか上がろうとしません。
「ジャージャー」が水遊びしよう(又はしたい)という合図です。
水平線まで波がありませんね。


父の家でウニを割ってご飯に乗っけました、ちょっと積丹を思い出します。
シタダメは彼らが食べたもの(海藻)で、お尻の部分の味が違います。
どちらと言えば白っぽいものほど癖がありませんが、モスグリーン色の金属が豊富な感じの味はまた玄人には格別です。
ガンチョ(ヤドカリ)もエビとほとんど同じ感じでいただきますし、ナンバ(唐辛子の意味)と呼んでいるピリリと刺激のある巻貝も美味しく頂きました。

ご馳走様でした。




2013年8月16日金曜日

帰郷から帰りました。


息子や長女家族と共に能登半島に行ってきました。(写真は息子が撮ったモノ、ちなみに次女は諏訪の花火大会で豪雨にあった模様がフェイスブックに載っていた)
ほとんど親孝行として戻っているのだけど、ひ孫を抱ける、実に肉的であっても幸せな事だと、感じます。
能登の内海は野尻湖以上に波がなく穏やかな海でした。
海もドンドン綺麗になっている感じで、過疎が進んでいるのでしょう。
とことん過疎になったらそれはそれでとっても価値があると思うのですが、今はまだお山の方が自分の住まい

向こうが暑かっただけに(それでも苦しいほどで無く結構楽しめましたが)、
途中から車のエアコンも消して窓を開けて一言

「夏が終わったって感じだね」

でも、まだまだ夏の遊びやり残しているので楽しみたいですが、、、
家に着いてホッとしました。
落雷で漏電ブレーカーが切れてガレージが上がらなかった、危うく冷蔵庫の食品がダメになる前に戻れて感謝(再度 ホッ )

2013年8月13日火曜日

アイスる

 新潟から来て下さったIIさんご家族、彼らが結婚する前からの付き合いだから18年目になるのかな、
水遊びしてアイスクリームを一緒に作りました。
お子さんが3人いるから実に賑やかで、笑い声と泣き声が絶える事がありません。
誰か一人がギターを弾きだすとか、ロッキングチェアーに座るとか虫取りするとかを、始めると他の2人とも急に始めたがります、そうやって、兄弟は切磋琢磨しながら育ちます。

 3歳でも教えると自分で生卵を割れる様になりんですから、人は偉大です。
 みんなで交代でアイスクリームメーカーを回します。
人数がいないとなかなか大変なのですが、イベントとして出来るのがいいです。
暑くなった頃に、ちょうど出来上がりです。
出来たばかりは、まだシェイクの様ですが、だんだんと固まってきます。
その後、BBQと夜の虫取り、朝の散策と割とゆっくりした時間の流れの中でたのしませていただきました。

少しだけですが流星群も見れました。

2013年8月12日月曜日

こんな爽やかな朝に、、

爽やかな朝から、ちょっとした話の流れで妻と口論的な感じに
息子が仲裁に入り(彼はいつも家内の見方)

「そのいい方、前のお父さんのようだよ」

などと、耳に心地よくない事を朝から言ってくれる。
彼が仕事に出る前に

「朝から気分を悪くして悪かったね。」

と送りだせたが、魂につい力が入ってムキになってしまったようで反省。
その後の家内が呟いた「アビガイルの行動がわからなかったけどナバルは私の肉なんだね、、」という話がキッカケで
私も サムエル上25節を読んだ。
なるほど アビガイルは、愚か者ナバルの妻として彼に仕えていたのだけれど
神が約束された民の王として建てられた方がやって来るとの話を聞いて
彼女は、近くに共に住んでいた夫ナバルを説得するのではなく遠く離れていた赤の他人ダビデの前にひれ伏した。

「どうか、あなたの敵、わが主に災いが及ぶのを願う者どもは、ナバルの様になりますように」

というアビガイルの言葉は、自分のパートナーに対してどうなのよ(?)と、魂的には、思わなくもなかった訳ですが
なるほど、ナバル=体 アビガイル=魂 ダビデ=霊 と捉えて流れを見ると
確かに聖書は霊的な書物だと神を褒め称える次第であります(当たり前だけど)。

アビガイルの行動や言葉には、夫に対する尊敬やわずかな同情すらないのである。
25章17節と25節と2回  ”どうしようもない男”  と言われている通り
ナバルを改心させて”賢いナバル”にするとか、”良いナバル”にするという事は誰にも(神にも)出来ないこと。
それは、生まれた時から”ナバル”であるからです。

カルメルというこの世の豊かさを享受しナバルは、非常に裕福な生活をしていた、事業を拡大し、王の様な宴会を開いていた。
ナバルがダビデの家来に言ったことばが

「、、わしのパン、わしの水、それにわしがわしの(羊の)毛を刈る者たちのために屠ったわしの肉を取って、どこの馬の骨ともわからない者たちにくれてやれというのか」

ナバルはダビデの事を知らないワケではない。
ダビデがエッサイの息子である事、主人であるサウルの所から逃げ出してきた(奴隷)者である事も自分から語っている。
この体は滅びるしかないのである。
大事なのは私の魂が、もともと仕えていた体をとるか、向きを変えて約束のお方から使わされたに仕えるか、それが問題だ
こんな爽やかな朝から、つい熱くなってしまったという今朝のお話

2013年8月11日日曜日

おちた実


昨日は十分水分を取り、十分汗をかいた、とても気持ちがいい一日
7月の初めに採った梅をこの天気のいい時に干した。
木に生っていた実と、一度地に落ちた実の感触と見た目、色づきも違っている事に今回気づいた。
地に落ちた実は、全体に硬く、表面が金平糖のように波打っている、そのせいか染まり具合も濃くなっている。
本当は、一度も堕ちたことのない実がいいのだろうけど、堕ちたモノにも恵があるし、
より赤く染まる事もあるのだろう。

丁度太陽が山々に沈むころ帰宅した。
しなが美しい   信濃の国に私は住んでいるんだな~
夜ベッドで横になりながら、虫の音が大きくなってきている事を感じる
コオロギやスイッチョンなど、この時間になると秋がはじまっているんだな。
短い夏を堪能したいです。

2013年8月10日土曜日

夏ですね。

一昨日から、やっと夏らしい天気
昨日バイクで走った感じでは、まだ戸隠に住むようになってからの夏本番にはまだ達して無い感じで、熱風ではなく涼やかな風を浴びてきた。

朝、テラスでギターを奏でを聞いている様な レイディ
彼は今日飯綱山を登ってくるらしい、たのしんでね。

今日は多分この夏一番の夏らしい日を味わえるだろう。
よし、「あまちゃん」を見てから行こう。

2013年8月9日金曜日

いい天気

朝からいい天気、空気が爽やかで気持ちいい
家内に「ねぇ、今日黒姫登らない?」って聞いた。
一応信濃富士とも言われる2,000mを越える山だから
どうも、心の準備が整って無くて今日ではないらしい。

さて、今日は何をしようかと、
生ごみを裏に捨てに行ったらブルーベリーが採り頃になっている事を思い出し、
ブルーベリーを採っていたら、インゲンが気になって、見たらもう大きくなり過ぎているのもある。
インゲンを採っていたら脇のジャガイモも目に入ったけどアレは土の中にあるからスルー
けれども先日も大きくし過ぎたズッキーニを見ると、食べれるけどあと1~2日置いていく方がベストかな~っておいていく。

信濃町での夏の普通の挨拶
「こんな暑さが少しでも続けばいいね」
ってわからなくもないね。 そんないい天気です。

2013年8月8日木曜日

水上散歩


昨日から、ちょっと夏らしい天気を頂き、水遊びにはうってつけ
まっちゃんらから2艇ボードを借りて
家内もSIGNさんも初パドルボードです。
3つともメーカも全長も違うのでその違いを味わうのもたのしいけど
意味など考えずに面白そうだからやってみる、それで十分かも

失敗して水に落ちる事が意外と楽しいのだから人は面白い生き物だと思う

足元を見ないで出来るだけ遠くをみること
考えないで、感じる事
足首を柔らかくして、力を抜く事

楽しいね、またね


2013年8月6日火曜日

加賀の千代女

 演出家森田雄三さんのブログに加賀千代女の事が書いてあった。
彼は彼女と同じ旧松任市(現白山市)の生まれ。
私の家内の母も松任市に住んでいて私も馴染み深い所でもあります。

だいたい名を残した俳人たちは旅をしているもので日本各地の俳句好きを訪ねている。
千代女も大阪や伊勢、名古屋に歩いて旅をしている。
絶世の美女だったとも、また、そうでなかったとも言われるが、残っているの肖像は確か51才と71歳の時のものだけで、だからこそイイわけです。
ブログもメールも無い時代、手紙さえ相当な金額がかかった時代(龍馬が姉に宛てた沢山の手紙は1通50両とも推定、、)
そこで初対面の人と「俳句のやり取り」をする。
バイカーはバイクにどの様に乗っている事が優先され、社長さんであるとかプー太郎であるとかは関係ない。
犬好きが互いの犬の話題で盛り上がる様に、彼女達も「俳句」が挨拶代わり。
「俳句」があるから、知り合いになれるということ。
そんな歴史的逸話として、加賀のお殿様と千代女にまつわる、次のような逸話があります。



 ある日のこと、加賀のお殿様((10代藩主前田重教?)が、女流俳人として名高い千代女の噂を耳にして、金沢城に召し出させたときのこと、
お殿様のお出ましがあり、御殿の大広間で平伏していた千代女が、

「お面(も)てを上げてもよい」

とのことで、お面てを上げたとき、殿が読んだ詩が

「加賀の千代 何にたとえよう  鬼瓦(おにがわら)」

千代女はすかさず

「鬼瓦 天守閣をも 下に見る」

と返したそうです(当時は結構な高齢だったろう千代女、71才のときの自画像は、しとやかな品のある尼の姿ですが)。
また、千代女の俳人としての才能をためそうと、

「一句のなかに四角と三角と丸を詠(よ)み込んで見よ」

題をお出しになったところ、千代女は一呼吸おいて

「蚊帳のなか(□) ひと角はずして(△) 月をみる(○)」

と詠み上げ、お殿様はその受け答えに感嘆、俳句だから受け入れる事が出来るゆとり(まあ、遊びなんですが)。
当人の身分や何を成したとかは、関係なく楽しむ事、日頃の肩に背負っているものを降ろして、今目の前にいる方と向かい合い語らう。
彼女の詠んだもので最も有名なのは

  「朝顔やつるべとられてもらひ水」

彼女は月も多いけど朝顔だけでも相当あります、朝鮮やかに咲かせて昼にはしぼむそんな所も魅力だったのかもない。
そんな彼女の最後の句は


  「月も見て 我はこの世を かしく哉」 

意訳(病気の私は、もう命が短いが、仲秋の名月の夜、今年も 明るく澄みわたった満月を見ることができた。
そして、 世の中のあらゆるものを十分に見つくしたので、思い残すことなく、心やすらかにこの世の中を去ることができる。)

”かしく”は女性だけが最後に付ける事を許された言葉”かしこ”と同じ言葉だったらしいですが、
かしこく生きて世を去る時に「、、それでは、この辺で、  かしこ」とさっぱりと行きたいものです。


2013年8月5日月曜日

学ぶこと

 今日ヒナは足の指で扇風機のスイッチを入れたり切ったりしていた。
家内が足でやっているのを見て学んだようだ。

私の家では、薪ストーブに 柵は回していない。
うちで育った子供達は一度も薪ストーブで火傷をした事は、ありません。
逆に、私は何度か薪の出し入れで、皮手を使わずに、火傷の経験があります。

猫や犬でさえも薪ストーブの快適性と危険性を覚える事が出来るのですから、例え1歳児であっても知ることはそれほど難しくありません。
ヒナも、よちよちであっても、燃えている薪ストーブを中心に円を描くように遠ざけて歩いていたものです。

所が先日見ていたら、薪ストーブのハンドルを触って、上下に動かし、扉さえ開閉して中を確認していました。
その事を話すと家内は最初「冬になって同じ事をしたら大変だから、止めさせないと」などと言ってましたが、
ヒナは、薪ストーブが危ないのではなく、薪が燃えている時が危ないことを知って確認していたんだろうと、話すと安心していた。
大事なのはルールを守る事じゃなく、何故こんな決まり事が出来たのか、そのルールの意味を知って危険を避ける様になる事が望ましいとジィジは思っています。


ただ、少し前までは、長女が虫を怖がっていたのを見てヒナも怖がっていたのだけど、
家内が足でアリを踏み潰すのを見て、ヒナもそれ以来踏み潰す様になってしまった、ハハ(汗)

2013年8月4日日曜日

寝顔の魅力

 今年の夏は、長野に来てから一番の涼しい夏に感じます。
昼時で、風が爽快で、とても気持ちがいいです。

老猫のレイディは朝から寝ている。
子供でも寝顔が可愛いのは何故なんだろう。
神様もそう思うのかな。

2013年8月1日木曜日

グレーてるグレてない


伊勢湾岸を桑名から豊田方面に向けて車を走らせていた。
バックミラーをみると後方からそれなりの勢いで近づいてくるバイクが見える。
ここは橋の上でも道幅にゆとりがあるから車線が開いて無くても車と車の間を殆んど減速もせずに抜いて行く

ZX-14Rが一台、二台、三台、四台 一本の糸が牽かれているいるように、切り返しながら小さくなっていく。

同じ車種どうしで、走らせ方の傾向が似ている者同士なら、お互いストレスはあまりないだろうけど実は面白みは意外と少ない。
それは、スピードというピンポイントな魅力で繋がっているだけで、誰か一人が、些細なミスで障害を持ったり、ハーレーに替えたりしただけで崩れていく関係でもある。
長い間世界最速の名をほしいままにしてきた文字通り、飛ぶ鳥を落とす勢いだった隼を追い落としたZX-14Rだけど
頂点は狭くそこにいれる時間は短い、まるで自分がバックしているじゃないかと思えるほどみるみる車間を開け放っていく4台のZX-14Rを見ながら「死ぬなよ」と心の中で呟いた。

前に、良い知らせを聞いてから具合が良くなったら行きたいと思っていた桑名に住むご夫妻の所に伺って今回初めて、ほんのわずかだけど「交わり」を感じれた。
聖書も持って行かなかったし、御言葉も語るでもないけれど、それは蛤の2枚の貝殻がぴったり合うような感じで自然な事。

”ぐりはま”ということば(あるいはスラングまたはシャレかオタク用語)がある、物事が食い違うことや、あてが外れること。室町時代から使われている言葉だそうです。

図のように『蛤(はまぐり)』をそのまま逆さまにした文字で書かれますが、漢字辞書には載っていません。
これは正式な漢字ではなく、「おのがばかむらうそじづくし」という著者の造字(国字)だといいます。

ハマグリの貝殻は、ペアになっている殻以外ではぴったりと形が合わないという性質を持っています。このことから『はまぐり』の倒語として『ぐりはま』が生まれ、食い違って合わないことを意味するようになりました。
「神経衰弱」に似たゲームの貝合わせ(貝覆い)という遊びでは、ピッタリ合わなかった貝殻のことを『ぐりはま』と呼んでいたことからのことば。
ちなみに、不良になることを意味する「ぐれる」という言葉は、この『ぐりはま』→『ぐれはま』→『ぐれた』からきているそうです。

グレるということばは家族の間で、噛み合わなくなったという事の一つの結果
今まで、価値があると思ってきた事が、つまらなく思えたり
何気ないものが特別なモノに思えるパウロもそうだったのかな、、
食べた事のない程大きくて美味しい蛤「ご馳走様でした」